日本に花見の習慣があるのは何故? | トリビアバンク
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日本に花見の習慣があるのは何故?

日本に花見の習慣があるのは何故?

桜とお酒

日本人ならみんな大好きなイベント

日本の春の一大イベントとなっているお花見。
毎年、桜の季節になると天気予報やニュースで、開花予想や花見の様子が見られます。
桜の木の下でのドンチャン騒ぎのお花見はしなくても、名所での夜桜見物や、近所の公園に咲いている桜に足を止めるなど、ほとんどの日本人にとって桜は特別な花となっています。

さくらという言葉は「さ」と「座(くら)」で構成されています。
「さ」は物事の状況や経緯を表す言葉(例:様、定め)であり、山の(自然の)神を意味する言葉でもあります。座は座布団の座ですから、桜という言葉そのものが「自然の神様のおわせられる場所」を意味しています。
季節の始めであるうららかな春に神の座に満開の花を見たとき、多くの日本人が幸(さち)多い一年を願い、酒(さけ)、祭(さい)をささげて宴(さの音で韻が踏まれている)をせずにはいられなくなるのでしょう。

日本人と桜

「お花見」という言葉には、前述した通り、桜の花を見るといったイメージが定着しています。
他の花を見ることを「お花見」とはあまり言いません。

奈良時代は単に「花」といった場合は梅を指していました。
お花見の「花」=「桜」という図式は「古今和歌集」で「桜」が好んで題材に使われるようになったことにルーツがあるようです。
このように平安時代より「花見の花と言えば桜」とのイメージが定着していきました。

また日本では、古くから桜は、咲き具合によって、その年の農作物の収穫量を占ったり、山の神様が宿ると考えられたりと、神聖化されてきました。
桜にお供えしたお酒をいただいたことが「花見酒」の起源と言われています。

吉野の桜と判官贔屓

修験道の始祖役行者に由来する吉野は、平安時代には既に桜の名所として詠われており、その後も西行法師を始めとする数々の文人・粋人に詠われ続けてきました。

花の名所は数ありますが、吉野の桜ほど有名且つ愛され続けている名所は他にありません。
大海人皇子(後の天武天皇)が壬申の乱で兵を挙げられるまで潜行されていた土地も吉野ですし、後には源義経が静御前や弁慶などを伴って吉野に逃れました。

太平記に、後醍醐天皇が、吉野に朝廷を開かれたことが詳しく記されています。
南朝は吉野の地と人を頼みとされ、京都奪回の号令をこの地から全国に発せられたのです。

これらの願いは全てつかの間の夢となり、遂に実現しませんでしたが、吉野の人々は、自分たちを頼みとする貴人のために我が身を顧みず全てを捧げ尽くしきったのです。
その心意気が散り際の見事な桜のイメージと重なり、祈りと宴となって全国に広がっていきました。

上野の桜、目黒川の桜

戦争によって荒廃してしまった上野の桜の復活運動が地元の有志によって本格的に始められたのは1948年のことでした。
以来約70年、上野周辺は桜をテーマに毎年ユニークな植樹活動が続けられてきました。
今では自他ともに認める日本一の花見の名所になっており、長期計画に基づいたこの地道な努力は今も世代を超えて受け継がれています。

最近特に人気の高い東京の目黒川の桜は1985年に植樹された2代目、まだ30歳の壮年樹です。
渋谷・代官山・恵比寿側と自由が丘・駒沢・田園調布側に挟まれたどちらかというと特徴のなかった中目黒駅周辺においしくてユニークなレストランが集まりだしたのがちょうど2代目の植樹時期と重なっています。
このことが幸運にも街の発展と桜の成長のコラボレーションを呼び、リピーターを増やしました。
ソメイヨシノの一生は意外と短く約60年、人間の一生に似ていると言われていますから、桜を愛でることは、自分の命を振り返り、祖先と子孫に思いをはせることとも言えるのではないでしょうか?